待機中は私語を慎め

[おりあに劇場]@舞台裏

28歳になったけど18歳の想像とだいぶ違うぞ。

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28歳になった。11/22の話。

誕生日おめでとうメールがついに一件もこなかった……。やったぜ。
証券会社関連から2件ほどきたけどそんなんはノーカンとして。 
知人からはゼロだったって話。

高校生の頃には90パーセントの学生が携帯電話を持っていたような時代で育ったからそういう慣習も無視はできないわけで。

去年もその前年も二件だったし、学生時代から友達は多いとは決していえないし職場での付き合いもフラット志向だったから別段気にしてはいなかった。人間強度が下がるんだ、みたいなことでお茶を濁していたけれど、いざ0件で一日が終わってみると、やはり何かくるものがある。

まさしく、ついに、って感じです。

ないならないで一向にかまわないけどね。と、一日経ったいまは思い直してます。なんでもないことなんだ、と割り切れた。

咳をしても一人、いいじゃないですか若いうちは。寂しさじゃ死にません。(でも病気のまま誰にも助け求められないのは悲しいな)

さしあたりテーマを変えてみたのですが、フォントが細かくて読みにくい文がいっそう読みにくかろうと思うので近いうちにできる範囲で手入れしてみます。文字サイズ変更どこー?

 

 

寂しい男の愚痴はいいんですよ。今日はそういうのじゃない。

28歳になっていざ人生や将来に思いを馳せる(なんじゃこの表現…)と、あまりにも思い描いた軌道とずれてる。コロンブスがアメリカ大陸に上陸したとき、「インド着いたわ!」って甚だしい勘違いをぶちかましたんですが、そういう間違いも功を奏した結果につながっていったじゃないですか。でも私はそっちのパターンではどうやらないような気配がひそひそと。足元に忍び寄っている。

ただただ取り返しのつかないミスを重ねているような。

小学生のときに人生設計みたいなの作成する時間を設けたこと、みなさんはありますか? 道徳のじかんだったか家庭科だったかまで覚えてませんが、22歳で結構して子供は2歳開きで3人もうけるプランだったのはいまでも覚えています。まだ、大学生とか就職氷河期とか社会保険とか扶養控除とか堕胎とかアフターピルとかコンドームとか、存在すら何も知らない子供のころの話ですよ。

あれはなんだったんだろう。

閑話休die。

27歳になったときからの一年を振り返ると、どういうわけか特筆して自分を許せない感覚がある。今年はとくに駄目だったなーという感じ。
危機感が増しているのに自覚的になっているのかもしれないね。

ここで、初めて、唐突に、ネット上で自分の話をしようと思いまーす。パーソナルな話。自分でも思い出しながら何かが狂っていた10年間を振り返り”私のなかのボク”について整理していこうと思う。これからの人生のために。

(後悔と反省と懺悔の半生にわたる日記みたいなものです。『こころ』みたいなクオリティは約束できません)

 無駄の多い生涯を送ってきました

一般的な両親共働きの家庭の四男末っ子として大阪市の上の方で育った私が、18歳からどういう人生、人としての営みをしていたかというと、主軸はアルバイトだった。

一般でみても日本人の社会的な主軸は労働だから、それ自体はまあ別にどうということはない。

高校三年生の夏休み、中学時代から親交のある友人に短期のアルバイトに一緒に行こうと誘われた。そこは家から自転車で3分ほどの宅配ずしのチェーン店だった。いまでも盛況で、夢の街創造委員会(出前館の運営元)なんかとも仲良くやっている。

面接は二人ともパスしたけども、一緒にシフトに入れるとダベる可能性があることと効率うんぬんよりもマンツーマンでのしっかりとした指導を優先したいということで、一週間ほどは一緒には入れられないとの説明があった。

高校生の私は「まあ、そういうものなのだろう」と思い、素直に従っていたが、出勤三日目にして友人がバイトを辞めてしまったことを店長から聞かされる。

店長「折田くんはどうする?」

私「応募した短期期間までは働きたいです」

8月末になると、長期での勤務を打診された。どうする、私!?

普通に働いてしまった高校三年生の冬

当然、高校三年生といえば受験を控える身である。
私も高校は公立であり、大阪がまだ第〇学区で区切られていたころの上の方である。
大学に進学する学生が大半を占めているような高校である。

しかし、そのころの私はもはや勉学に対しての熱意は完全に失っていた。
私が躓いた路傍の石はあまりにも大きかった。

 人生の後悔その1:文系と理系というものを知らなかった。

 高校1年生の冬、学ランからフードを出すのはおしゃれぼーいずの特権だった。私はちんちくりんのナードだったからオレンジレンジで騒げるクラスメートとかの輪には入れなかった。あれってゼブラヘッドじゃん、スパイス・ガールズじゃん、KISSじゃんといったところでみんなの顔には「何言ってだこいつ」といった表情が浮かんでいた。

そんなこんなで体育館での学年生徒総出で集会である。

ここでビートたけしが現れて「みなさんには殺し合いをしてもらいます」なんて言い出したら、私はどういう行動を取るべきか、なんて夢想無双していたら二年からの文系理系の説明が始まった。

自分が文系か理系かなんていまでも分かっていないのに、そのときの私はただ混乱した。全部の教科を学ぶことについては等しく好きだったし、得意とか不得意とか勉強に関係あんのかよって思ってたから、やりたいやりたくないありきで判断させているようなこの制度になんの意味があるんだと、もうやりきれない。

文系に進めば数学Ⅲがとれなくなって、理系に行けば世界史も日本史も手が抜ける?

なんだそりゃ、聖剣伝説Ⅲかよ。

そこに揺るぎなくある教育伝統は、私の言い訳を後押しするには絶好のものになった。

提出締切日になって誰に相談することもなく理系に〇をつけ、翌日のクラスの名簿と確認表を見て気づいた。

当時好意を寄せていた女の子、あやさんが文系に〇をつけていたのだ。これはつまり二年に上がったときにクラスが別れてしまう、ということではないのか? よく知らないが。

早速担任に変更を申請した。そのくらいどうでもよかった。とにかく恋に溺れている自分に身を委ねたほうが楽だと思えた。結果二年に上がり、文系クラスに配属されたが、彼女は2つとなりのクラスに配属となり、2クラス合同で行う体育でさえかぶる機会はなく私は全てにつばを吐いた。

告白の2歩手前

そうそう、一年の7組だった私は年明けくらいにはそれなりにクラスに溶け込みお別れクラスプチ旅行に参加した。ひらパーで半日遊んだ。懐かしい。

その後、茨木に戻りイオンモールで晩ご飯とプリクラなんかを撮った。

クラスのマドンナなんかもいたりしてこれはリア充っぽいなあなんて思いがあった。そのときはまだリア充なんて言葉はなかったけど。

で、解散。産業道路を自転車で帰る途中に解散したばかりのクラスメイトから電話がなり、また戻ってきてくれとのこと。10分ほど引き返し、広場に戻るとベンチにマドンナが一人ちょこんと座り込みこちらに手招きをしている。隣にすわるも黙ったままのマドンナ。とくればイヤでもなにか期待するものがあるじゃないですか。
当時、高校生ですから。

未成年の主張的な?

ねるとん紅鯨団的な? 

 で、ぽつぽつと今日の話とかを話すんですよ。学校ではほとんど話したことないんですよ私たち。私が眼で追っかけてるばかりで。なんで1は素数じゃないのか、くらいしか話したことないのに何だこの展開は、と。ドギマギしていたわけで。

当然会話はすぐに沈黙をむかえて、そしたら彼女は言うわけです。

「折田くん、好きな人とかおるん?」

うわーー、こんな台詞セカチューでも出てこないぞ!!

「いますよ(なぜか敬語)」

「へぇ…………」

また沈黙。目の前のネオンが綺麗。

「私な……実はな……」

で黙り、次に何を言うのか、こっちは何をいえば良いのか、なんて考えてたら彼女が

「ごめん! やっぱり無理!」

と宣言し、高々と両腕を交差するポーズをとった。

 

頭が真っ白になったね私は。

おっ、TOKONA-Xも聴くんだ、なんてジョークが飛び出せばよかったんだけど。はっは。

 そこでネタバレのボードも何も持ってないクラスメイトが7人ほどネオンの裏からニヤケ顔で出てきた。

ねるとんでも学校へ行こう!でもない、生ダラ!!だったのだ。

幸いそのメンツにあやさんがいなかったことと、自分から告白なんてしなかったことが不幸中の幸いだった。マドンナをフれる男なんてその当時いなかっただろうから。

その日の傷はまだ癒えてない。何も解決されてないからね。私に彼女がいないのもその恐怖症が張り付いているから、ということにしている。

人格形成には大きすぎたトラウマも告白したところで、二年に話を戻そう。

二年生 清き魚も 住みかねて

二年になればクラスメイトもがらっと変わり、7組から同じクラスになったのは4人だけだった。クラブにも所属していなかったため、外に繋がりはなく全体的に仲良くなれた気がしたのは9月ごろだった。

二年は特に思い出もない。高校二年になると、性の壁を超えたものの比率も上がってきてなんだかどろっと生々しい空気や臭いがときたました。息苦しい世界だった。私はまた歪みを人知れず内包していくのだった。

文化祭で観た他のクラスのガールズバンドのクオリティが低くて「このレベルでも文化祭に出られるのか」と思い、同じクラスでthe band apartのシングルを持っていた友人を誘い、バンドを結成。三年のときに念願の文化祭音楽ステージに立つ。このくらいしかない。(しかし、アルバムには我々の演奏中の写真は一切使われなかった。5組でて他の4組はあったのに)

三年は良いクラスだった。あやさんとの一年越しの再会が何よりもドラマチックだった。後期の学級委員を一緒にやった。そのころの彼女といろいろと色の付いた夢想も繰り返したが、彼女は6月から下級生のサッカー部所属男子と付き合いはじめた。

右足しか使えない無茶振りスルーパス常習のくせに彼女を下の名前で呼ぶこの男が羨ましかった。すごく惨めだった。そして私はまた歪みを人知れず内包していくのだった。

せめて夏休みまでに別れてくれれば、と放課後のクラスの窓から運動場を見下ろして祈っていた。実際に別れたのは卒業後らしく彼女の処女性がどうだとかそんな話は友達の前では口にしなかった。彼女とはもう卒業以来あっていない。

卒業 みんな将来を見ていた

いやあ、振り返りが長くなった。人の青春を数キロバイトで収めさせないで遅れ。
じゃあ長期のバイトをどうするのかって話に戻ろう。

勉学の熱を失った私は進学のフラグもたちようがなく、だらけた高校生活を送っていた。最後の試験なんかは成績に反映しないのでみんな定期試験そっちのけで受験勉強をしていた。ここも納得がいかない部分で、私は勝手にボルテージを上げて試験に取り組みクラスで3位の合計点数をとった。これはいい思い出。

長期で働いていたアルバイトは卒業後も当たり前のように働いていた。

高卒は大卒に30歳になったころには余裕でぶっこ抜かれてるんだよ、高卒なんてバカな選択だぞ。そういってくれた友人の言葉も振り払うように働いた。

お盆と年末が稼ぎ時である宅配ずしである。休みたいときに休めない仕事だったが、人間関係は良好で楽しいので居心地は良かった。10ヶ月で100万貯金して、高卒でもできると言い返そうとしていた。

雇用形態はアルバイトのままの二十歳。成人式での懐かしいメンツ。しかし話はやはり噛み合わない。水が合わないとはこのこと。

幹事が用意した貸し切りのバー。テキーラではしゃいだメンツがグラスを割る。30分に一回は聞こえる「パリン」という音。

ああいうのには成りたくねえな、なんて思いながら店をあとにする。

そこで幹事から追加徴収、一人500円ずつ。グラスを割りすぎた、らしい。

だから紙コップにしろよ、なんて文句も遅く、もともと無料だった幹事の会費に加えお疲れ祝儀とでも思うかと私は黙って500円を払った。
80人ほど参加した会だったけど、どんだけの人が払ったかは定かではない。
けっこうの数だったと思う。

二次会はカラオケ。カラオケは大嫌いだったけど、久々にあった友人が参加するので付き合いで同行。一時間ほど経ったころ、二部屋借りた部屋の向こう側では幹事A(男)が幹事B(女)にディックを咥えてもらいながら500円の山を精算中だった。らしい。直接は見てないのでなんとも言えないが。ちなみに恋人関係にはないふたり。まあそのへんの貞操観念や倫理観は個人差でしょう。気持ちわりいけど。

その後、15人ほどいたはずのカラオケ組は7人しか残っておらず幹事は誰もいなかった。支払いさえ済んでいない状態でトンズラ決められた私たちはフリードリンクに酒プランや誰が頼んだのかも知らないパフェの料金を支払い、近くのなか卯に移り午前5時に朝食を取った。後日、消えた幹事のCとDは、AとBがお金を弄っているころ川をひとつ超えたさきのラブホテルに行っていた話を聞いた。お疲れ祝儀はタクシー代とラブホテルとゴム代か何かに変わったのだろう。お金は天下の周りもの。

悲しいがこれって真実なのよね。

それ以来、彼らの開く催しには一切参加していない。

バイトのルーティーン生活のなかでも変化はあった。働くスタッフが変わっていったのだ。入った頃の先輩は皆いなくなり、同期も声優になるために上京した。3年一緒に働いた後輩も就職頑張りますと店をやめた。店長も辞めた。入ったころから店長は五人代わった。パートのおばちゃんの娘さんは小学生だったはずが、こないだ専門学校を卒業した。そのパートのおばちゃんも辞めた。気づけば一番の古株になっていた。

フランチャイズ契約が直営の管轄になる

 今年の二月、私よりも2歳下の大学留年のあと中退した子が店長になって半期ほどだった記憶があるが、ともかく彼は言った。

「この店はフランチャイズでしたが、本部が買い取り直営店となります」

その年の春から就職する大学生組を除いて、皆は怪訝な顔をした。

直営=厳しい のイメージが共通認識だった。

直営になればフランチャイズ時代のように自由にネタの卸元を探して比較して選べなくなる。発注の融通もきかない。ものがいいかといえば、やはり値段がちらついてしまうレベル。決め手にならない。それらは弊害でしかなかった。 

 本部が用意したものを本部が提示した値段で買い取る。店舗の会計帳簿は圧迫されるのは目に見えている。しかし本部は儲かるのだ。

直営になることでもうひとつ良くない店によくない事態を招いた。
去年、けっこう話題になった制度がありました。

マイナンバー制度。

言い方が悪いけども、店舗スタッフは迷惑を被るひとが多かった。

このふたつが主な要因で在籍スタッフの半分は姉妹店に異動した。店長は直営になるタイミングでお店を辞めた。

移動先の姉妹店店長に頼まれて引き継ぎとして店に残った私ほか数名は、新しい制度や新しいオープンスタッフに馴染めなかった。ゆるい環境に慣れていた駄目な労働力となっていた。

毎朝読み上げる経営理念や新店長との溝は埋まりきらず、ついに残った数名は土曜日という大事な日に連絡もなく全員ばっくれた。その後折り返しもなく、店長がいない日にメモだけの謝罪文を残し姉妹店に異動した。というわけで、新直営店と姉妹店は非常に仲が悪い状態になっていった。

旧店舗の人間はいなくなった。また私一人が残されるかたちになった。

ここまでくるとドラマ映画の主人公なんじゃないかと錯覚してくる。

直営の知らせを聞いた頃から”働くということ・お金を生むということ”についてさらに考えることになった。もともと、自分の給料はどこから出ているのか、どうやってそのお金が生まれているのかなどに24歳ごろに気づいた人間ではあるので、ようやく重い腰をあげた感触だった。

7月 店舗を駅の方に移転するのが確定し、8月からそっちにて営業再開です頑張りましょうというタイミングで、私は今月で辞める旨を改めて伝えた。

4月の挨拶の段階で「先月辞めるつもりでしたが、店長もいなくなりスタッフがいないので引き継ぎが終わるまで続けたいと思います」とは言っておいたので、一応の義務だけは通せていると思う。

いまのスタッフの能力だとお盆は絶対しんどいから働きたくないとか思わなくもないけども、飲食で働き続けても……という気持ちが消えないのはやはりでかい。

そんなスタッフの誰にも打ち明けていない気持ちを抱えて、私は店を辞めた。
「週一でもどう?」と言われたけどきっぱり辞めた。除籍してくださいと告げた。

 私は仕事を辞めました

不思議な開放感があった。未来は開かれているような。草なぎ剛が出ていた世にも奇妙な物語の散髪屋の話、あんな感じの爽快感。一時的なものだったけど、気持ちよかった。『アバウト・シュミット』をレンタルして観た。クソ映画だったぜ。

しかし、爽快感のあとの喪失感は急速に訪れた。

 

いつかの少年が夢見た”三人の子供がいる父親候補”は、彼女なんてもってのほかで誕生日を祝ってメールをくれるような親しい人物もいなくて、高校時代の友人には年収も貯金も追い抜かれて、ブログで愚痴を吐く人間(かっこ無職)になっている。

書いていてけっこうな駄目具合だ。ダメージがでかい。

老いていく予感がした。30代のうちは40代に見られたくはないし。

そんなわけで私はいま平日の早朝7:00ー9:00にビルの清掃をする仕事をほそぼそとしている。月曜日の朝からのトイレ掃除は自問自答の渦に飲み込まれそうになる。
就労後は速攻で帰宅するために、コッチの職場でも仲のいい人はいない。連絡先を知っている人は一人だけである。

当たり前だけど労働時間がダントツに少なくなったので月収はナイアガラ。

時間だけが増えた。

死人の顔で漂うネットサーフィンの途中で見かけた記事に一筋の光を見た。

簿記の資格を取ってみよう

3級は少し勉強すればとれるという情報を真に受けて勉強本を買い、勉強を始める。

借方も貸方も知らなかった自分もゆっくり理解を深め、先日の日曜日11/20に南森町の関西経理専門学校にて簿記3級の試験を受けてきた。

相対評価ではないので70点の合格ラインを超えたら資格ゲットである。運転免許と同様。

して結果は……12月の初旬に発表なのだが……手応えがない。問題用紙を持って帰ったものの再チェックも自己採点もしていない。する気が起きない。もしかしたら超えてるかも? とかいうラインではないからね。

てなわけで、簿記3級すらまともにパスできない私はここ2日腐っていた。最高に気分の優れない誕生日を過ごしていた。

 

まとめ:人生の転機になればいい。できればいい

そんな辛さを背負い続けるのも今日まで──のつもりの決意表明でこんなテキストを書いた。

読み付き合いありがとう。

最後まで読んだ人には申し訳ない気持ちがちょっと……知らんやつの面白みの薄い半生なんて時間のムダだったんじゃないかな。

最後だけ読んだ人には……ちゃんと読めよこのやろう!!